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第2 回 74歳現役プランナー 田中清寛 

第2 回  生い立ち

【月刊HOTERES 2016年10月号】
2016年10月07日(金)
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リーガロイヤルホテル ブライダル担当支配人
田中清寛氏
〈プロフィール〉昭和17 年5 月6 日生まれ。㈱ロイヤルホテル 昭和40 年3 月入社。ブライダル部門以外に総務、人事部、セールス、「ラ・ロンド」マネージャー、「レストラン シャンボール」マネージャーに従事。ブライダル部門はのべで約40 年間勤務。平成12 年3 月、シビルウエディングミニスター資格取得。

大阪を代表する「リーガロイヤルホテル」。約60 もの宴会場、会議室を所有し、宿泊、料飲施設もバラエティに富んでいる。国際会議場も隣接し、まさに国際的なホテルとして国内外の要人から外国人観光客、ビジネス客など幅広い層に対応している。そんな中、1965 年3 月の入社以来、ロイヤルホテル一筋、ホテルマン街道まっしぐらに生きている人物がいる。それが74 歳現役プランナーとして活躍している田中清寛氏。全12 回にわたって同氏の生きざまを描写する。お客さまに対して決してNO と言わない、真摯な姿勢。これからホテルマンを目指している次世代、そして現在、ホテルマンとして勤めている方々に多くを学んでほしい。

 
 1942(昭和17)年5 月6 日、兵庫県尼崎市に清寛は生まれた。9 人兄弟の末っ子だった。父は長崎生まれ、鉄鋼所に勤務していた。ところが清寛が3 歳のとき病気を患い、5 歳のときに他界、帰らぬ人となった。
 
 未亡人となった母は主に着物の仕立てなどをして子育てのために働いた。お金を稼がなければ子どもたちの生活、学費を捻出できなかった。自分のことはさておき一生懸命、昼夜問わず働き続けている母の姿を清寛は尊敬の念を持って見ていた。
 
 第二次世界大戦も終わり、多くの爪痕を残しながらも日本社会は復興に向けて動き出していた。そのような中で清寛もたくましく育っていった。人前に出ることが大好きで、毎年学芸会の主役を演じていた清寛の姿を見て、小学校3 年生の担任で日本舞踊の名取でもあった教員が清寛に踊りを習うことを勧めた。清寛は素直に担任の勧めを聞き入れ、踊りの世界に足を踏み出した。当初は男の踊りを習っていたが、女の踊りの方が向いているのではということから女形の踊りを習得するようになる。
 
「女性の先輩たちの中で稽古をしていたとき、いろいろな方が親切に教えてくださいました。化粧の仕方や歩き方、表情の作り方など、主役の男を支える女の踊りを稽古することで、私自身、芸の幅も広がり、稽古をすることが楽しかったですね」
 
 その後、清寛は大学に進学、法学部に在籍した。在学中は「歌舞伎研究会」に所属し、歌舞伎に熱中した。文化祭はもちろん、単独公演を行なったり、神戸国際会館でも歌舞伎を披露した。 当時の朝日座で上演した白井権八の時代劇では初めての男役として「雲助」を演じた。
 
「キジも鳴かずば切られまいに…」(白井権八)。それを駕籠の中から見ていた幡随院長兵衛が声をかける、「お若いのお待ちなせえやし」「待てとおとどめなさるしは拙者がことでござるかな」(白井権八)。幡随院長兵衛との名場面この白井権八は昭和時代以前の人にとって、一度は使ったり、聞いたことのある、よく知られた舞台台詞だ。江戸に向かう白井権八が鈴ヶ森にさしかかると、お尋ね者を捕らえ、賞金を手に入れようとする雲助たちに取り囲まれて、大立ち回りとなる。斬りつける雲助を鮮やかに切り伏せる白井権八の姿を描写している。その雲助役を演じたのだ。
 
 清寛は「与話情浮名横櫛(よわなさけのうきなのよこぐし)」の「お富」や「恋飛脚大和往来(こいのたよりやまとおうらい)」の「梅川」など、数々の歌舞伎の名作の女形を演じた。女形を演じる上でのしなやかで繊細な動きが、清寛の魅力である柔和な雰囲気を作り上げていった。
 
 このように清寛は小学校3 年生のときに始めた踊りから時代劇、歌舞伎と芸の深さを追求するとともに、演じることの楽しさ満喫しつつ、友に恵まれ、充実した生活を送ったのだった。
 

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