1.危機管理の全体像:「クライシスマネジメント」と「リスクマネジメント」
今回から数回にわたって「ホテル・旅館の危機管理入門」を連載致します。既に、各ホテル・旅館では、事業継続計画(BCP=Business Continuity Plan、以下BCPとします)を構築していらっしゃる会社も多いことでしょう。それは危機管理の2つの側面の内の一つです。
危機管理の全体像は以下のとおりです。
危機管理の全体像
クライシスマネジメント
BCP構築の目的は一般に、「クライシスマネジメント」つまり、危機事態が発生した後の復旧手順、あるいは被害を最小限にとどめることです。
具体的には自然災害、大火災、テロ攻撃、パンデミック(新型コロナウィルスなど)といった緊急事態に遭遇しても中核としての事業の継承、あるいは早期に復旧するために平常時に行うべきことや緊急時の対応方法等を決めておくことです。
しかし、ホテル・旅館の危機という意味ではBCPはその一部分です。自然災害や、大火災、テロ攻撃、パンデミックなどの他にも危機は存在します。
リスクマネジメント
一方で「リスクマネジメント」は、予防に重点が置かれています。ホテル・旅館に危機事態を招かないための、いわば予防することが目的です。
こうした予防が可能と思われるリスクには、以下のようなことがあります。企業としてのキャッシュフロー不足による倒産危機、リノベーションの費用高騰、従業員の大量離脱、ゲストとのトラブル、社内のパワハラ・セクハラなどを代表とするコンプライアンス違反、ゲストやスタッフの怪我、衛生管理の不徹底、ゲストのご要望の聞き違い、スタッフ間の申し送りミスといったヒューマンエラー(人間だからこそしてしまう可能性のあるミス:専門的にはヒューマンファクターと呼ばれます)など数多く存在します。リスクマネジメントとは、これらを予防することを目的としています。
2.危機管理の各種ツール
いろいろなツールが危機管理には用いられています。ここではいろいろなツールの内、スタッフと共有しやすいツールを3種類ご紹介します。
ハインリッヒの法則:ヒューマンエラーに気づき、大事故を防ぐ方法
重大事故はゲストやスタッフに不幸、組織にとって大損害をもたらす
米国のハインリッヒ氏が発表したもので、1件の重大事故(アクシデント)の背景には、29件の軽微な事故(インシデント)があり、その背景には約300のヒヤリハット(ひやりとする、はっとする体験、つまりアクシデント・インシデントの一歩手前)があり、その背景には数千の不安全行動・不安定状態(危険な作業方法・安全衛生ルール違反等)があるというものです。重大事故は利害関係者全員に大きな損失をもたらします。
筆者の直接知る限りでは宿泊業に限らず、エアラインや鉄道会社、アミューズメント施設、メーカーなどでも幅広く用いられている手法です。
ハインリッヒの法則は、ヒューマンエラーに気づき、それを改善しようというアプローチです。
日頃から、上記のどのようなことがそれぞれにあたるかを共有して、それぞれの職場特性に応じて注意すべきことを決めて実施することが、現場スタッフのリスク感性を高め、重大事故の防止効果が期待できます。
ハインリッヒの法則活用のヒント
1.現場で事実を収集する
まず現場でどのような不安全行動・不安全状態があるか、ヒヤリハットがあるか、軽微な事故があるかという事実を収集し、現場で防止策を話し合って決めます。その上で優先順位をつけて全社・現場の改善をします。これは地道な作業ですが、重大事故を防ぐためにはこうした作業が効果的です。
2.現場を経営幹部が支える
こうした情報収集・分析作業を現場のスタッフが実行するには、その時間を作る必要があります。経営幹部や現場管理者が現場を支援する必要があります。具体的にはどの時間・時期がオフピークなのかという情報を共有し、計画的に実行することです。また、長期的にはスタッフの余裕時間を作るためのパートタイムスタッフの活用や、専門家によるタイムアナリシス(それぞれの職種の時間の使い方を分析する手法)等の支援も検討してみましょう。
スイスチーズモデル:多層的防護策の本当の使い方
スイスチーズモデルとは、スイスチーズのようにヒューマンエラーを防ぐ複数の方策(防護策)がありながらも、それらすべてを通り抜けてしまったときに、トラブルや事故が起こるというものです。チェルノブイリ(現チョルノービリ)原発事故等の原因としてこの多層的な防護策の用い方に問題があったことが指摘されています。トラブルが発生した時に現場スタッフがパニックに陥ったため、自動防護システムを手動に切り替えたことが大事故に発展した原因でした。
スイスチーズモデル活用のヒント:防護策は、特性にふさわしい使い方を
1.事故発生の防護策を列挙する
各種事故を防ぐためにどのような防護策があるかを列挙します。例えば火事の拡大を防ぐスプリンクラー、防火扉、消火器などのハードウェアに加えてソフトウェアとして、社内規程、安全管理マニュアル、チェックリストといったものがあります。
2.それぞれの防護策の特性を理解する
どのような防護策でも、得意なことと、苦手なことがあります。それらの特性を日ごろからよく理解しておきます。例えば業務マニュアルが使える局面と、想定外の状況の中で臨機応変に行動すべき局面があるはずです。ただし、想定外の状況の中でも、基本となる考え方(人命尊重、被害拡大防止、迅速で正確な情報伝達等)があることはもちろんです。
航空業界でパイロットの運行マニュアルが紙からタブレットに変わった時、多くの機長・副機長はタブレットだけでなく、分厚い紙のマニュアルも携行していました。理由は、タブレット導入直後にはソフトの不具合で画面が立ち上がらないという現象が発生していたため、とっさの時の危機回避に役立たなかったからです。
3.防護策の効果的な使い方と限界を理解して使う
それぞれの防護策の特性を充分に理解して効果的な使い方をします。
チェックリストの使い方には気をつけて:ルールブックは一定の厚さに抑える
安全や清潔さを保つためによく使われるチェックリストも、使い方によっては形式的なものになり、あまり役立たないことがあります。このチェックリストの目的は安全や清潔さを保つためにチェック作業を小分けにして、誰がいつ何をチェックしたか、その結果どうだったかなどを記録することです。しかし、チェックに集中できない状況(例えば、疲労蓄積、周囲からの声掛けで気がそれる、考え事をする、他の業務が多忙で充分な時間をチェックに割けない など)では、チェックのクオリティに問題が出ます。
一方では、実際には確認をせず「大丈夫だろう」と安易な判断をすると、大きなトラブルの原因になります。また、いたずらにチェック項目を増やすとスタッフのするべき仕事がいたずらに増えて、その分注意が行き届かないことになります。いわゆる現場の「手抜き」を経営幹部や本部が作り出している可能性があります。
筆者の昨年の記事「ホテルのブランドとオペレーション」のインタビューに伺った際、東京ステーションホテルの大谷潤氏(客室支配人、総支配人室 室長)は、「問題が起こった時にチェックリストの項目をいたずらに増やすことはせず、根本原因を分析して、再発防止をする」という主旨のことを仰っていました。
余談ですが、鉄道業界や製造工場などでは指差喚呼(しさかんこ)あるいは指差し呼称といわれる方法があります。目で見て、指を指し示し、声を出すというわれわれの五感の内、三種類を動員して念には念を入れようというものです。
こうした考え方はホテル・旅館でも応用できるかもしれません。なるべく五感の多くを動員して確認をしましょう。
フィンクのリスク予測図
このモデルは「クライシスマネジメント」と「リスクマネジメント」の両方をプロットすることが出来ます。自社、自ホテル・旅館、自職場の危機を俯瞰するために効果的です。
縦軸:
縦軸はその危機(ここれは「危険」と表現されている)が起こった場合の「危険衝撃度」を想定します。10度というは非常に大きな衝撃です。具体的には地震・津波・火災・食中毒・ゲストの怪我等を指します。上に配置されるものは危険衝撃度が高いものです。下に配置されるものは、比較的低いものです。例えばスタッフ同士のコミュニケーションミスで作業が少しだけ遅れたなどの内、ゲストには直接ご迷惑をかけていない内容です。
横軸:
横軸にはその危機が起こる「発生確率」を想定します。100%というは必ず起こることです。0%というのは、起こる可能性はほとんどないが「絶対に起こらない」とは言えない、といった程度のことです。
部下とディスカッションをしながら、それぞれのゾーンにはどのようなものが入るかを想定しておきます。ホテル・旅館は現在、忙しい中で危機管理をしていかなければなりませんので、危機回避の重点を決めて、限りある経営資源を有効に活用します。
以下は、それぞれのゾーンに入り得るサンプル(ごく一部)です。みなさんのホテル・旅館にふさわしい図を、スタッフ全員参加で決めてください。そうした作業を通じてスタッフ全員の危機管理意識が高まり、クライシスを想定したBCPにも実践しやすいアイディアが集まることでしょう。
フィンクのリスク予測図:ホテル・旅館の例(ごく一部)
フィンクのリスク予測図活用のヒント:
1.会社(ホテル・旅館)全体の予測図を作成してみる
2.各部門で独自に作成して、全社のものとすり合わせをする
3.優先順位をつけて対処方法を考える
上記2.の具体的な項目の例:
地震、津波、土砂災害、火災、停電、送迎バスの事故、駐車場での事故、ゲストの荷物・衣服の汚損、預かった荷物の紛失、電子キーのトラブル、ゲストからの苦情、盗難、ゲストの怪我・病気・嘔吐、強度のアレルギー反応(アナフィラキシー反応)、食中毒(ノロウィルス、腸炎ビブリオ、ブドウ球菌、病原性大腸菌、サルモネラ等) ゲスト同士のトラブル など なるべく細かく記入しましょう。
次回のご案内
次回は、「危機管理マニュアル」について具体例でご説明する予定です。従来型の文章やフローチャートできっちり説明するタイプのマニュアルと、写真やイラスト、動画の活用など、いわば新しいマニュアルのそれぞれの利点をご説明できればと考えます。
この記事へのご質問やアドバイスが欲しい方は遠慮なく筆者にご連絡ください。このコラムはあくまで入門的知識をご紹介していますが、より突っ込んだアドバイスも可能です。内容によっては時間がかかる場合、個別回答でなく(質問者のお名前・所属を伏せて)記事上でご説明する場合もあることをご承知おきください。(連絡先表記)
筆者紹介
深山敏郎(みやまとしろう):株式会社ミヤマコンサルティンググループ 代表取締役、ホスピタリティ・コンサルタント、中小企業診断士、日本リスクマネジメント学会 特別会員、健康経営エキスパートアドバイザー、異文化コミュニケーション学会 正会員等。ホテル・旅館の危機管理支援、BCP/コンプライアンス体制構築支援、ブランディング、リブランディング、オペレーション・スタンダード構築支援、コンプライアンス体制構築支援、各種トレーニング構築・実施。現在ホテレスオンラインにて「ブランドとオペレーション」連載中。
連絡先メール:toshiro@miyamacg.com